桜舞う、身体酔い

bk1がリニュアールオープンしたのですね、周りはみんなリニュアール流行。オヤジの身体もそろそろ、リニュアールが近づいたみたいです。三砂ちづるの『オニババ化する女たち』は女性の身体を取り戻す。もっともっと、直截に自分の身体に向き合うということでしょう。そこから、リニュアールの一歩が始る。出産の経験は女性にとってもっとも重要な出来事で、その定点で作者は『女性学』を語るのですが、したくとも出産出来ない男性はどうしたら、いいのだろうかと、読みすすむ内にちゃんと結語に書いてくれていました。

基本的に男性というのは、女の人に助けられればいいのではないか、と思っています。ゲーテも『ファウスト』の中で「永遠の女性なるもの、われらを高く導く」と言っていますが、男性は本当に女性に導かれていくというところが強くあると思います。女性にゆだねる勇気を持つのがいいのではないでしょうか。

かような勇気なら自信があります。

女性の側も、ゆだねられるだけの度量をもともと持っていたわけです。様々な経験を通じて、本当に受けとめる力というのがつくようなからだになっていたわけなのですが、今はどの経験も機能していないので、女性がまったく受けとめられない。ですから男性ももうおぼれる寸前のようになってしまっています。どちらももう全然、地に足がついていないのです。

養老孟司の口説なら、脳化社会膿の中でアップアップしている男と女の縋り付く藁は“身体性”っていうことでしょうか。

やぱっり身体性にしても、どちらからよくしていくかというと、女性からよくしていかないとだめなのではないでしょうか。女性の側がよくなると、男性がよくなってくるはずです。私は男性ではないので男性がどういうふうにすればいいのかよくわからないのですが、まずは、女性が要だと思っています。

まあ、近代という装置は女の力を抑えて男性主導のシステムを構築したのは間違いないでしょう。それを脳/身体という二分法でマッピングすれば、男/女になるのでしょうか。分かり易い構図ですが、後期近代という時代認識であろうと、ポストモダンという認識であろうと、前近代に先祖がえりして身体の復権を唱えてもどの程度実効性があるのか、三砂さんは「助産婦さん」の医療行為としてでない「出産」を楽しい出来事として受容する身体、社会システムは可能だと、そして、実際に運動をなすっているのですが、近代医療システムを乗り越えるには医療という行為に馴染まない前近代の様々な“生きる知恵”が補助線として追記されるのであろう。イデオロギーを超えた非常にプラグマティズムな実践と言えよう。
bk1のリニュアールは一歩二歩前進ですね、投稿書評をクリックしたら、“はい”と“いいえ”のそれぞれの投稿人数と割合が表示されている。オマケにトラックバックできるツールが設置されているので、投稿は面倒でもトラバならどんどんやってゆこうかなと思います。さっそく調査すると、かって裏ヴァージョンbk1でトラバしたのが、一部、貼り付けられているみたい。ぼくの『感じない男』(森岡正博著)のレビューだけでなく、トラバも"紹介されていました。
★本日のアクセス数(249)