イデオロギーとしての愛国心

kuriyamakouji2005-04-11

仲正昌樹宮台真司との対談集『日常・共同体・アイロニー』の最終エントリーで「本来性とアイロニー」について語っています。仲正がアドルノの著作『本来性という隠語』(未来社)について「本来」と言うドイツ語は「アイゲントリッヒ」で「もともと」とか、「そもそも」とかいう意味らしいですね。「現存在(人間)というものは、本来的に……」という言葉遣いに見られるような、ハイデガーの「そもそも論的」な語り口を本書で批判しているわけです。

宮台さんも示唆しておられたように、自分たちが真の共同体だといっているものは人為の共同体なのであり、自然な共同体などありません。自分たちがこれこそ「本物」だと信じているものを含めて、共同体というものは人為的につくられるものだ、という自覚が十分にあれば、新興宗教や左翼的革命政権が、一直線に暴力性に走るようなことはないでしょう。なかなか自覚できないので、いつも暴力が生じてしまうわけですが……。/現時点で左翼的な立場にいる人に、「自然な共同体があると思いますか」と聞けば、ほとんどの人は「ない」と答えることでしょう。とはいえ運動をやっていると、いつの間にか個人の思考が運動に吸収されていまい、自然な共同体があるかのごとき幻想を抱いています。そのため、個々人は冷静なふりをして「自然な共同体などない」というが、運動全体としてはそれが「ある」かのように振る舞うことになってしまう。こういうパターンは、非常にたちが悪い。(270頁)

内田樹研究室のエントリー『反日デモの伝える声』をロムしていたら、何故こんなにも国を語ると熱くなるのか、そもそも、共同体とは与えられるものではない。おのずと身についているものだ。そんな切っても切れない身体性に刻まれたものが日の丸なら、当然、強制され得ないと持ちこたえられない愛国心は紛い物であろう。韓国であれ中国であれどこの国であれ事情は同じだ。恐らく、国を愛する心はどの国の為政者にとってもやっかいなものであるはずだ。政治に利用できる愛国心は紛い物であろう。そんな紛い物の愛国心が多すぎる。勿論、僕がここで身体性に刻まれたものしか拠所がないと言ってしまうことも欺瞞が入り込む余地がある。「自然な共同体」、「本来性」言説と見極めがつかないからだ。ただ言えることは、ぼくの言う「身体性の共同体」は言葉に馴染まない、メッセージとして声高に語ることを拒否する「沈黙」の中にしかないものだ。もっとも政治から遠いものだ。去年のぼくの12/30のエントリー「友ありや」にこんなカキコがありました。

もし、誰かが私に、/「祖国か友情か、どちらかを裏切らなければいけないとしたら、どっちを裏切るか?」/と質問したら、私はためらわずに、/「祖国を裏切る」と答えるだろう。/一国の革命は、百国の友情を犠牲にしてきずかれるものではないのだから。−寺山修司著『さかさま世界史』ー

◆問題は、友情がそんなに見つからないっていうことだ。国家はいくらでもある。身捨つる友情であれ、祖国であれ、それを欲しても手に入れるのが困難だということだ。国家は簡単に手に入る。素直であれば、慰めてくれる、いい子にしておれば、守ってくれる。でも、国家は君を友人として遇さないであろう。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」、そんな国を思う心は「沈黙」の中にしかない。「友情」も声高に語ると鼻白むばかりだ。イデオロギーとしての「恋」を信じることが出来ますか?、イデオロギーとしての愛国心は簡単に相対化し得る商品に過ぎない。性風俗として流通するラブ・ストーリーとどう違うのであろうか、まあ、だからこそ、大量消費されやすいのでしょうが、それだからこそ、危険だとも言える。それに抗するに「沈黙」しかないとしたら、歯軋りするしかないが、でもぼくの手持ちにはそれしかない。

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