タイムマシンとしての「依代」

 今日は自治会の体育祭だったので、早起きして小学校の校庭で遊んで来ました。でも選手として一度もエントリーしないで舞台裏でゲームの準備作業ばかりで大分疲れました。慰労会で久し振りに呑んでちょいとあちらに飛んでいる。それはそうと、ある人からコメントで「依代」って何の事?国語辞典に載っていないの…。って問いがあったので、この場で答えます。依代って、「酒」のようなもんですね。酔っ払ってあちらに飛べば、「缶ビール」、「酒」が「依代」になります。広辞苑に寄れば、

神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有体物で、これを神霊の代りとして祭る。かたしろ。よりまし。

 この説明を読むと村上春樹ファンはそのものずばり『海辺のカフカ』のことを思い出すかもしれない。僕が昔投稿したbk1の書評でよりまし(憑座)、よりしろ(依代)に事寄せて書いている『夢の中から責任が始る?』で、荒っぽく図式化すれば、一軒家があって一階を此岸、二階を彼岸とイメージしてもららう。でも、こんなわけ方は誤解を生むかもしれない。一階を見える世界、二階を見えない世界と考えた方がいいかもしれない。さて一階から二階に行くのはどういう方途を取るか?西欧近代においてはまず階段を構築する。意識の階段、合理の階段、科学の階段、でも、東洋にあっては一階から二階に行くのに階段でなく依代を使っているんではないか?『海辺のカフカ』で言えば、ナカタさん、岩石でしょう。
 かって、雑誌『新潮/タイムマシンとしての小説』で高橋源一郎保坂和志と対談して、高橋さんは保坂さんの小説『カンバセイション・ピース』を批評して、源一郎さんはポール・デイヴィスの『タイムマシンをつくろう!』、山本義隆の『磁力と重力の発見』を同時並行して読んでいて、この二冊は保坂さんの小説と同じようなことを言っているのではないかとおっしゃる。そして、高橋さんは小説はタイムマシンではないかと言い切る。僕の言い方ではタイムマシンこそは依代なのです。この小説の登場する一軒家はタイムマシンだと言う。小説は基本的に過去のことを書くものであって、それがいかに難しいことか、小説を書く上で過去を現前させるのがいかに難しいことか、タイムマシンをつくることは難しいのです。高橋さんの言うことはその通りだと思う。
 もし、古典足りうる戦争小説があり得るのなら、僕にとって、それは今現に戦場にいるライブ感なのです。それは、タイムマシンに乗って、そのことが現前する世界に降り立つことなのです。そうであるなら、それは依代、憑座です。
タイムマシンをつくろう!海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (下) (新潮文庫)磁力と重力の発見〈1〉古代・中世磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス磁力と重力の発見〈3〉近代の始まりカンバセイション・ピース