<お金>と<依代>

そもそもの発端はソーシャル・ネットワーキングの「MIXI」の中の、「風の旅人」読者会というコミュニティでした。概略かような僕と佐伯さんとのやりとりでした。ブログ上で『保苅実と「風の旅人」と世代論』というタイトルで公開されています。
そう言ったやりとりの中で僕はこんなことを書きました。

>時代に関係なく、「大勢が正しいと言っているから正しい」ということに反発を感じたり疑問を感じていた人
 かぜたびさんがそういう人たちに発信して表現媒体としての雑誌つくりに邁進していることは痛切に感じる。
1968年生まれの○君は「葉っぱさんたちの世代は絶望も希望もあったが、僕らにはないのです。」
「絶望も希望もない地平で生きる動機付けを模索したと言っていいでしょう」
そんなシーンで東浩紀の「動物化するポストモダン」が登場したのかもしれないが、彼らは意識して冒険をしないように心がける。彼が仕事柄「風の旅人」を手にし読んだときの感想が、そのような去勢というか虚無というか、アイロニーな生き方を揺さぶるものを感じたと思う。「雑誌という出版史の中で消えないで残るものでしょう」でも、彼にはある種のうざったいものを感じたものと思う。又、そのことに関して疚しさもあるものだから、?もの言わぬ世代?という穴に入り込む。
 そんな彼が吉田修一が「パーク・ライフ」でデビューした時、興奮のメールを送ってきたのですが、最近、内田樹の『他者と死者』を別に僕が奨めたわけでないのに、今、こんな共振できる本を読んだのは久し振りと、僕が既に読んいるとも知らずにメールを送ってきました。そんな彼が内田さんに共感できる所以は謎ですが、彼の中には「絶望も希望もなくても生きてみせる」という覚悟があるように見える。果たしてそんなことが可能であろうか?  

 長文なので大分省略していますが、大意はこんなもんです。それに対してshohojiさんからこんなコメントをもらい、記事が発展して僕にとって実りあるものになりました。

 「絶望も希望もなくても生きてみせる」
 あるいは 「絶望も希望もないから生きる必要はない」
 のどちらであるかを検証することを目的として書かれているようです。おそらく結論などでないことでしょうが、まさに「生命学」ですね。森岡さんが「生命学」と名づけられたわけですが、学問としての名前はなくとも、この問題は、人が「文明」というものを生み出し、「言葉」を生み出した時点で、形や方法こそ違っていても、私たちをつねに動機付けたり、悩ませたりし続けてきたのでしょう。森岡さんはそれを「学問」としてなんとか形あるものにしたい、と格闘されておられるのだけれど、かぜたびさんのコメントや、わたしの「ラディカル・オーラル・ヒストリー」への感想にもあるように、「学問」それ自体が、そういう「いのちのあり方」を否定する構造をもっているものだから、ものすごく難しいですね。

 僕や佐伯さんは森岡さんに対して所詮、「表層の人」という認識があります。shohojiさんはそんな僕らの認識に「いや、そうじゃない」と森岡さんを信じたいと保留しているわけです。まあ、そんな詳細なやりとりはMIXIでご覧下さい。(興味ある方は…)
 一応、千人印の歩行器にはアップしました。でもそれが、「共同体」と「公共性」の問題に繫がって横ズレしました。そのズレがシャノワールカフェ・別館の『公共性について』に飛んでいったのです。その流れの中でぴぴさんの『「希望格差社会」再読のために「危険社会」を読む』の中で、こんなコメントをしてしまいました。

 でもね、資本主義社会を享受しながら、是々非々で文句を言う。そこが問題なんでしょう。『無痛文明論』もそうです。
 無痛文明を享受しながら、痛いのは嫌だということに対して疚しさを感じ、収まりのいい理論構成をする。ストレートに無痛文明の蜜を吸いたい、暖かい繭の中でまどろみたい。そんな欲望に支えられてこの社会が進展し殆どの人が新たな欲望に邁進する。そのシステムとして資本主義に変わるべきものを構築しないと、どうどうめぐりでしょう。無痛文明も資本主義社会も…。資本主義に変わるべき魅力あるシステムは果たしてなんだろうと考えます。それが見えない。ただ、言えるのは徹底的に廃墟を見据えて、その中から止むに止まれぬコミュニティの構築を稼動するしかない、ただ、その構築は常に更新にさらされるものではないといけないと思う。
 コミュニティの根拠がイデオロギーであれ、民族であれ、宗教であるなら、<お金>の方がより説得力があり得るし、普遍性を確保できる。問題は<お金>以上の何かを見つけることでしょう。それが、本音のところで見えていない。<廃墟>を見据えれば<お金>以上の何かを見つけることが出来そうな気がするのです。

 それから、前日の『タイムマシーンとしての依代』の話になったんです。
 今日は少し、頭の中がぐちゃぐちゃになっているので、僕なりに備忘録として整理しました。ある人が<お金>と対峙する<ブログを始めました。そのことがよくわかる。
 参照:『ハワードヒューズの隔離の病』