萌え/依り代

 夏目房之介さんと黒猫房主さんとの間で「萌え」についてのやりとりがあり、僕自身も横からカキコしたのですが、僕なりの思考実験でキャラ/キャラクターについてメモしています。その前に夏目さんの「萌え」に関する長文のレジュメを読んでみました。色々とインスパイアされるところが多々ありました。こちらは補足です。
 共通のテキストは伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』で黒猫さんは中条省平の書評についての断章で、原著を読んだ上ではないし、僕自身も未読です。だから、あくまでネットアップされた夏目さんの「萌え」についての覚書、思考実験を僕なりの共振して書いてみます。というのは「萌え」については、東では秋葉原、西ではミナミの日本橋で東の現在は知りませんが、時たまミナミに行くといわゆる「萌えロード」が着々と進行している。報道特集でミナミの『メイド喫茶店』を放映していましたが、喫茶店に入ると、「いらっしゃい」でなく、「お帰りなさいまし…」だということ。店を出ると、「いってらっしゃい」です。
 『萌えマップ』というフリーペーパーも発行されているらしいですね。「萌え」は完全に風俗として定着している。問題は、フィギュア、コミック、アニメ、キャラグッズ、コスプレ、風俗としてのパフォーマンスなど、それぞれのシーンで「萌え」について考えるべきなんでしょうね。そして、それを文化史の背景で考察するツールとしてキャラ/キャラクターは効果的に使える物指しだということでしょう。
 でも実際、時間性を持つ/持たないのマッピングは実情に合わないかも知れない。そこを強引に思考実験します。
 【A】キャラ⇒時間性のないもの⇒快楽のレベル⇒データベース(東浩紀)⇒死のない生
 【B】キャラクター⇒時間性のあるもの⇒享楽レベル⇒第三の審級(大澤真幸)⇒死のある生
 ここまでの道行では【A】は物語性を拒否する。【B】は積極的に物語を導入する。キャラには死がないが、キャラクターには死がある。でも実際の文脈ではキャラとキャラクターを同じように使っている場合が多いですね。
 実際玩具・ホビー業界ではキャラクター商品でキャラを語る。だから、恐らく、キャラクター>キャラであって連続して把握するのが通常でしょう。そこに挿入項として「萌え」を入れることでキャラクターを特化して「キャラ」という仮構をしたのではないでしょうか、【B】のキャラクターは近代が生んだ「人間」理解があるのではないか、そこにカリスマ性が付与される。その限りでは一回こっきりだけど、そこに法が誕生する事情に似たシーンが発生し決まり文句、二次使用、繰り返し、再帰性、そのリフレイン、宮台真司風に言えば「終わりなき再帰性」なんでしょう。そこで、カリスマ的キャラクターがキャラの衣装をまとう。
 黒猫さんは永井均の『私・今・そして神』(講談社現代新書)を取り上げて『「キャラ」と「萌え」』について考察していますが、本書は未読ですので、コメントを控えさせてもらうとして、マイブログに永井均の『マンガは哲学する』についてコメントしているので、アップします。
 永井均著『マンガは哲学する』で、作者はマンガに求めるものは“ある種の狂気”だという。別段、マンガでなくとも表現には“病としての狂気”と“新しいものを生み出す狂気”との境界線上で綱渡りするのは当然である。あちらの世界に落っこちて、こちらの世界にもどってこれなくなるかもしれない危険を冒しても挑戦すべきものが表現であろう。単なる表層の戯れと峻別すべきは当然である。表現が内面を生み出すとしたら、そんな狂気を孕んでいる。しかし、巷に流布している小説群はプロットという乗り物にデータ保存したピースを組み合わせて狂気を脱色した再現性で、書店の店頭を飾っている。消費するだけで、時間が消える。消えた時間は人々の生活を支える。まあ、それでもいいのですが、いつからか、本を読むなら、古典かマンガかという変な選択肢が僕の中に生まれてきました。本書を読むと永井均さんは、哲学書かマンガになるのです。

内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んでむしろその狂気こそががほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。

 なるほど、そんなマンガなら内面が生まれる。魂の交流も会話も成り立つ。章立ては1:意味と無意味 2:私とは誰? 3:夢ー世界の真相 4:時間の謎 5:子どもvs死―終わることの意味 6:人生の意味について 7:われわれは何のために存在しているのか になっており、かったくるくて敷居の高い文庫みたいですが、カテゴリーっていうか引き出しを学者らしく整理整頓したのであって、マンガ名作評論集として読めばいいのではないか、こうやって梗概すると、日本の戦後は“マンガ文化”を生み出した時代として後代に記憶されるのではないかと、今現在進行形のマンガ・アニメの圧倒的な力の源泉を本書で再認識しました。北欧で少年ジャンプが発売とマンガの持つ世界市場性、普遍性は力強いものがある。ベルギーのshohojiさんちで、ドラえもんは人気らしい。色々な国で放映されて色々な国の言葉を喋っているんでしょうね。
◆どうやら、僕はキャラクター(キャラ)/人間という具合にスラッシュすれば、端的な事実性(外部)/近代的人間像(内部)と言う具合に理解しようとしていますね、それは多分、黒猫房主さんの言う≪「キャラ」とは永井均ふうに言えば<端的性>ではないのか? つまり「キャラクター」のような時間性をもたない<いま、ここ>の輝きが「萌え」なのではないのか?≫なのか、でも、この端的性を<狂気>と読んだ時それはキャラを含めたキャラクターとして僕なりの思考実験で、僕はそこに超越系な概念「依り代」を【C】付記したい。依り代は時間性を乗り越えるタイムマシーンでしょう。「キャラ」は閉ざされた社会で快楽を編む。「依り代」はそこを飛び立つタイムマシーンだと思うのです。本来「キャラ」はアイコンとして超越的な志向性を持っているはずですが、今現在の「萌えモード」は飛び立たないでデータベースとして劣化している。そんな理解です。
参照: http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/manga/manganews/news/20051129org00m200068000c.html