最後の写真家!?

 かぜたびさんが『言うに言われぬ清々しさ』『写真の終焉!?』『写真の終焉!??』をアップして写真家?杉本博司氏をめぐって浅田彰氏とコメント欄でやりとりしているのですが、そもそも、発端の浅田彰氏のテクスト『文学界 11月号 写真の終わり―杉本博司「時間の終わりに」展の余白に」を先程、読みました。
 浅田さんの他のテクストをちゃんと、渉猟していない僕としてはこの172〜178頁でしか判断材料はないのですが、結語は素直に杉本博司氏に対する大時代的なオマージュになっているなぁ〜と、受け取りました。少なくとも、名前は知っていてもあまり関心のなかった写真家?の写真を機会があれば、見てみようかなというPOP的に駆動されたことは確かです。

そう、かくも唯物論的なレヴェルにおいて、写真という媒体は事実上の終焉を迎えようとしている(むろんマージナルな形では生き延びるだろうけれど)。今さらそれを嘆いてみても始るまい。ただ、写真史がまさにこの時点において杉本博司という最高の幕引き役を持ち得た、その出来すぎた偶然に感嘆するばかりである。

 何と格調高い…、そして読み手(と、言っても僕ですが)を気恥ずかしくさせる。確かにそこに浅田さんの知性に相応しからぬものがある(僕のように現代思想と関係ない男でも浅田さんは現代思想を代表する知性の一人だというリスペクトはあります)、そのような結語です。
 そんな違和感からくる読解で杉本博司氏に対する“ホメ殺し”ではないかというコメントが生まれるのもわかる。浅田さんがコメントしているように≪そもそも杉本博司は写真家ではなくたまたま写真という手段を使っているアーティストに過ぎない≫という了解があれば、かぜたびさんとそんなには齟齬しなかったろうと思う。
 しかし、この『文学界11月号/写真の終わり』だけを読めば、「最後の写真家」と、まるでどこかの国の最後の皇帝みたいな悲劇的であるけれど、ヒロイックな印象を感じさせてしまう浅田さんの口上です。
 安宅の関勧進帳を読み上げる弁慶をも彷彿させますね。杉本博司氏は「最後の写真家」のフリをしたコスプレ・アーティストなのでしょうか、まだ、作品を見ていない僕はこんな勝手なことを想像しました。是非みてみたいですね。みなさんのレポを読むと、多分、僕は写真として見るのではなく、テーマパークのノリで消費すると思います。
参照:2005-12-20 - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜