局面における最善手(インター・ジャンル)

オンライン書店ビーケーワン:羽生
 ニートホープ(凄くインパクトのあるブログ名に変更したんですねw)さん経由で、東浩紀雑記によれば、東浩紀が「リバタリアン」で、萱野稔人が「コミュニタリアン」で、北田暁大が「ポストモダン・リベラル」であるという図式が、かなりはっきりと見えてきますと書いているが、鈴木謙介TBSラジオ「life」で発言したという赤木智弘後藤和智は「ネオリベ」だとカタゴリーライズするような思考実験は、どこまで有効か疑問であるけれど、なんとなくわかったような気持ちになります。
 でも、赤木さん、後藤さんが、「ネオリベ」だと言われると、どうしてそのようなことになるのか、好奇心が沸きます。出典は鮭缶さんによると、TBSラジオ「6月3日放送「運動」part8」だそうです。これから、アーカイブ検索して聴きたいと思いますが、さて、どうなりますか。
 僕は自分のことを「オールドリベラリスト」みたいなことを言っちゃいますが、その実、だからどうなんだと問われれば、はっきりと答えられない。リバタリアンにしろ、コミュタリアン、ポストモダン・リベラル、オールドリベラル、アナーキ、ネオリベだって、最初に登場(起源問題)の頃は勿論、今だって探せば、時代が要請する「いいところ」があったんだと思し、今でもある。
 それぞれのフレームを後生大事に二番煎じ、三番煎じで、世渡り道具にする、せざるを得ない事情が膿を出すのであって、そのような腐臭はクールに距離を置いて検証しながら付き合えばいいと僕は思っている。カテゴリーライズされた蝶は、本人と別物であるのは当然で、コレクター(学者)の文脈の中でしか存在しない。そうは、言っても知的遊戯としては面白い分類ですから、結構、僕も愉しんでいることは否めない。少なくとも、脳内が整理されるわけです。
 leleleさんが論争の予感というスレを立てていますが、論争の摺り合わせで、少なくとも「生きた果実」の萌芽がひょっこり生まれればいいですね。
 まあ、僕の最も近い立ち位置は、その場面、場面で、又は時間で、リベラリストになったり、コミュタリアンになったり、アナーキストネオリベリバタリアンになったりするから、いまだに、これらの差異がはっきりわからない。キーワード検索で、これらが、ちゃんと定義付けされているが、読めば、読むほど、頭の中がぐちゃぐちゃになります。老いるということも一因かと思うが、○○○ですと、語り得ない残余が常に残る。
 本日のbk1書評でこんな投稿をしましたが、「語って、語って、考え抜いて、それでも最後に残るもの」が、誰かさんと違う場合、ふと漏れる、ため息みたいな、命名出来得ない、そんでも仮に言ってみる「日本人だなぁ…」、「リバタリアンだなぁ…」と、そうやって自分の立ち位置を仮に踏みしめてみる、そういうことではないかと思います。