つぶやき50年南無阿弥陀仏

若いネット友から転載の依頼があったので、一部引用してリンクして置きます。
興味のある方はクリックして下さい。詳細はこちら:http://d.hatena.ne.jp/kamata-academia
【特別企画! 東京南部の青春――いま甦る1950年代サークル運動の世界】
2009年11月23日(月・祝日)13:30〜17:00/大田区・嶺町集会室/03-3722−3111/東急池上線雪が谷大塚駅徒歩7分/東急多摩川線沼部駅徒歩10分
主催:東京南部サークル研究会/共催:蒲田アカデミア/協賛:不二出版/後援:大田区教育委員会
お問い合わせ:東京南部サークル研究会 道場親信/044-989-7777(内線5805)/メール:nanbu50sあっとまーくgmail.com

1950年代、東京南部(大田・品川・港区)は全国でも注目された文化サークル運動のメッカだった。日々のくらしに追われながらも、若者たちは詩を書き、皆とうたをうたい、芝居を自主制作していた。当時、南部には200を超えるサークルがあったといわれているが、そこから「原爆を許すまじ」などのうたや数々の詩が生み出されていった。今回、当時大田区を中心に活動した「下丸子文化集団(のち、南部文化集団、南部文学集団と改称)」が1951年から59年までに発行したサークル誌が復刻された。すべてガリ版刷りのこの雑誌を手がかりに、文化への憧れと渇望を自らの手で満たしていた50年代の青春をふり返ってみたい。http://d.hatena.ne.jp/kamata-academia/より

1950年代と言えば朝鮮戦争もあったし、僕は「Kという街」で16歳まで過ごしたことになる。
先日、仲正昌樹の『Nの肖像』を読んだのですが、第一章「広島県呉市」で、呉の街について書いている。僕と仲正さんとは20年近いタイムラグがある。60年安保の年(高校二年)にこの街を離れたわけですが、仲正さんは1963年に呉で生まれている。仲正さんが、この本で初めて同じ地方の高校に通っていたんだと知り、ビックリしました。呉三津田高校は「旧制呉一中」でかって江田島海軍兵学校への多数の卒業生を送り、進学率が一番高かった。そのような伝統が戦後まだ生きていて僕らのころはそんな気概がまだあった。僕より三つ上でこの高校を卒業して東大法学部に進学し厚生省事務次官まで上りつめ収賄容疑で逮捕された人がいたけれど、彼のことは宮崎学が著書に書いていたが母子家庭で使命感を以て行政の世界に入っていったわけですよ。動機はともかく挫折した。
その他、卒業生は巨人の名ショート広岡、作家の田中小実昌とかユニークな人がいます。
でも、現代思想界にちゃんとポジションを得ている仲正さんが、卒業生だとは本書を読むまで知らなかったのです。
まあ、仲正さんとは、親と子ほど歳が違うけれどねぇ。
高校もまるっきり僕らの時代と違う。76年から呉の公立高校に進学するときは、僕のいた呉三津田高校を入れて三校をくじ引き抽選で決めたみたい。

私が通っていた広島県呉三津田高校は、けっしてエリート進学校ではなかった。以前は、東大に年間十人くらい送りだす進学校だったが、七十六年に広島県は総合選抜という入試制度を採用して、それ以降、同校のレベルは落ちたようだ。/総合選抜というのは、呉市だったら、呉市内にある三つの普通高校を同じものと見なして受験させ、合格者のなかから、志望校ごとに抽選で選ぶシステムである。(p43)

仲正さんは抽選で呉三津田高校に当たるわけです。こんなシステムを初めて知りました。
僕らの頃はまだ、東大、京大に進学するのは珍しくなかったけれど、
仲正さんの頃は呉三津田高校から東大に進学したのは二年ぶりで仲正さんが受かったということです。
◆時代は変わるっていうことをこんなエピソードで改めて感じます。
そこにあるのはもはや50年代の街の風景ではない。1950年から始まった朝鮮戦争で死に体になっていた呉の街は活気づく。僕の生家も倒産しかかっていたが、なんとか持ち直す。
1953年7月27日板門店で朝鮮休戦協定が調印されるわけ。
混血の街、仁義なき街、在日の人たち、沖仲仕の兄ちゃんたちと放課後、小学校の校庭で草野球をしたり、長屋の裏通りでチャンバラをしたり、戦争の影を帯びた荒々しい街の風景でもあったのです。
ヤクザも跋扈していたが、日教組の教師たちも元気でした。とにかく、街も人もメリハリがきいていた。だから、仲正さんの「Kという街」の風景は平和都市宣言、ヤクザ撲滅キャンペーン後の全国津々浦々の70年代に登場し始めた郊外都市に似た印象の乏しいものだったのかもしれない。
追記:三冊の日本住宅公団史 - 出版・読書メモランダム そして、小田さんの書くように1955年に日本住宅公団が発足。郊外に団地が続々と建設され始める。政界も再編成され55年体制がスタートする。結局、それから50年、又大きな世の中のうねりがやってきたということでしょう。
でも、まだ朝鮮戦争は休戦であって終わっていない。
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僕の60年代は近くに在日の人たちが多い大阪の街に引っ越しました。束の間持ち直していた生家の商売(乾物問屋)がやっぱ倒産して、大阪で中古機械屋を営業している戦友の会社でサラリーマン生活を始めたわけです。
上に転載紹介した「東京南部の青春――いま甦る1950年代サークル運動の世界」は「呉という街」にとっても無縁ではなかったと思う。
そんなことを考えていると、東京永久観光の「つぶやき銀河」で、こんな口上が飛び込んだ。ツイッターを眺めていてつくづく感じるのは、情報もまた人間と同じように砂粒化が激しく進んでいるのだということ。同時に、インターネットに仮に意識みたいなものが生じても、それは1人のブログや1個のつぶやきの次元ではないということ。」
80年代、90年代の「のっぺりした風景」どころか、砂粒化は益々進行してアナログのサークルどころか「つぶやき」までも極小化してゆくのでしょうか。

そうしてどうなるのか。私たち国民はみなグローバルな経済や政治の力学だけで流動する砂粒になる。日本もアメリカも中国も韓国ももうない。私がどこかの国の民であるというロマンなどほんの1、2世紀で終わった。情報の世界においても、「はてな」も「ミクシー」もほんの数年足らずの輝き。「私のこのつぶやき」や「私のこのブックマーク」が「はてな国」という中間的共同体に帰属し保護されている状態など、歴史の夢の1ページにすぎなかったのだ。

ニューロンみたいな「ツイッター」かぁ、「つぶやき銀河」で「ブログならしっくりきてツイッターはしっくりこないユーザーなんて、インターネットにおける知能体としては、もう古いやつであり滅びゆく運命なのだろうか?」と慨嘆しているが、僕はもう文句なく「古いヤツ」ですよ。
でも、新たな疑問は又一方で1950年代に若者達が関心を持つ流れがある。ささやかなものかもしれないが、50年たった今と50年後は果たしてどうなるのだろうか?
今日は宇治の平等院に詣りました。久しぶりでしたが、鳳鳳堂に安置されている阿弥陀仏は50年ごとに修理されるのでしょう。今日、拝見したのは、修理してお化粧直しした阿弥陀如来坐像だったのです。
50年後、つぶやきの南無阿弥陀仏になるかどうか、でも念仏は「つぶやき」に似ているかもしれない。
「呉という街」を離れてからもう50年がやってくる。あれから一度もこの街を訪れていない。1940年体制の崩壊の表れがバブル崩壊、そして1995年の出来事でしょうか。50年は人も街も潮目なのでしょう。Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶