身も蓋もあるお話

オンライン書店ビーケーワン:平成男子図鑑オンライン書店ビーケーワン:若者はなぜ3年で辞めるのか?オンライン書店ビーケーワン:搾取される若者たちオンライン書店ビーケーワン:もう、国には頼らない。
 web草思の保坂和志エッセイ『世界はこんなふうにも眺められる/第15回 70年代のビートルズ』が更新されましたね、日々主夫業のようなもの(介護し、介護される相互扶助に近いけれど)に見様見真似で修業している身にとって、そうか、ジョン・レノンっていう理想系があったと、以下の保坂さんの一文を付箋として保存。

入社直後の組合研修では、育児休暇の説明があったときに、
 「育児休暇は男は取れないんですか?」
 と質問して、組合の人からすごく変な顔をされたりもした。
 私がこういう発言をしたとき、私の心の中にジョン・レノンがいたことは言うまでもない。そんなモデルはジョンしかいなかった。しかしジョンとジョンが否定しようとしたビートルズの関係と偶然にも似てしまうのだが、ジョンがハウス・ハズバンドをして“個”を打ち出したとき、その“個”は社会と対峙した“個”だった。社会に背を向けて家庭にこもったとしても、それはただ「家庭にこもる」のではなく、あくまでも「社会に背を向けて」なのだ。個人を論じるのも、天下国家を論じることよりも軽んじられていたからこそ個人を論じることに勇気がいった。それはただそのまま“私”のことをしゃべるのと意味が違う。
 ジョン・レノンが生きたのはそういう時代までだった。ジョンは何でも“身をもって実践した”感じがあった。それが70年代ということでもあったのではないかと思う。

 時代という文脈の中で「同じ言葉」が同じではない、そんなことも増えましたね。
 こちらNBオンラインのエッセイ・鼎談も考えさせられました。
 ■『平成男子図鑑 〜リスペクト男子としらふ男子』の深澤真紀、『若者はなぜ3年で辞めるのか? 〜年功序列が奪う日本の未来』の城繁幸、『搾取される若者たち 〜バイク便ライダーは見た!』の阿部真大とのNBオンラインの鼎談です。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20070618/127696/
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20070618/127696/?P=2
 ■ワタミさんの「競争のない社会こそ、格差社会ではないですか?」http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070626/128331/
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070626/128331/?P=2
 過去ログでも書きましたが、アナーキ民法学者と言われた沼正也さんは契約法を徹底した自由競走の市場に置き、親族・相続法を市場から離れて、復帰するリハビリの舞台裏とか、引退の場とか、そういうセーフティネットとして法整備して、より公平な分配を心がけるわけですよ。そのバランスの上に沼民法学は成り立っている。そういう意味で徹底したネオリベに近いものがあるかもしれないが、他方で徹底した親族・相続法の法適用でプレイヤーたちを公平に扱おうとする。談合社会はオサラバ、再販維持制度も撤廃、高速道路無料化、そういった徹底した規制緩和を一方でやり、他方でバックグランドとして厚い福利厚生を行う。そんなデザインです。でも、そのためには、最低限、消費税と相続税法に手をつけざるを得ないでしょうね。

局面における最善手(インター・ジャンル)

オンライン書店ビーケーワン:羽生
 ニートホープ(凄くインパクトのあるブログ名に変更したんですねw)さん経由で、東浩紀雑記によれば、東浩紀が「リバタリアン」で、萱野稔人が「コミュニタリアン」で、北田暁大が「ポストモダン・リベラル」であるという図式が、かなりはっきりと見えてきますと書いているが、鈴木謙介TBSラジオ「life」で発言したという赤木智弘後藤和智は「ネオリベ」だとカタゴリーライズするような思考実験は、どこまで有効か疑問であるけれど、なんとなくわかったような気持ちになります。
 でも、赤木さん、後藤さんが、「ネオリベ」だと言われると、どうしてそのようなことになるのか、好奇心が沸きます。出典は鮭缶さんによると、TBSラジオ「6月3日放送「運動」part8」だそうです。これから、アーカイブ検索して聴きたいと思いますが、さて、どうなりますか。
 僕は自分のことを「オールドリベラリスト」みたいなことを言っちゃいますが、その実、だからどうなんだと問われれば、はっきりと答えられない。リバタリアンにしろ、コミュタリアン、ポストモダン・リベラル、オールドリベラル、アナーキ、ネオリベだって、最初に登場(起源問題)の頃は勿論、今だって探せば、時代が要請する「いいところ」があったんだと思し、今でもある。
 それぞれのフレームを後生大事に二番煎じ、三番煎じで、世渡り道具にする、せざるを得ない事情が膿を出すのであって、そのような腐臭はクールに距離を置いて検証しながら付き合えばいいと僕は思っている。カテゴリーライズされた蝶は、本人と別物であるのは当然で、コレクター(学者)の文脈の中でしか存在しない。そうは、言っても知的遊戯としては面白い分類ですから、結構、僕も愉しんでいることは否めない。少なくとも、脳内が整理されるわけです。
 leleleさんが論争の予感というスレを立てていますが、論争の摺り合わせで、少なくとも「生きた果実」の萌芽がひょっこり生まれればいいですね。
 まあ、僕の最も近い立ち位置は、その場面、場面で、又は時間で、リベラリストになったり、コミュタリアンになったり、アナーキストネオリベリバタリアンになったりするから、いまだに、これらの差異がはっきりわからない。キーワード検索で、これらが、ちゃんと定義付けされているが、読めば、読むほど、頭の中がぐちゃぐちゃになります。老いるということも一因かと思うが、○○○ですと、語り得ない残余が常に残る。
 本日のbk1書評でこんな投稿をしましたが、「語って、語って、考え抜いて、それでも最後に残るもの」が、誰かさんと違う場合、ふと漏れる、ため息みたいな、命名出来得ない、そんでも仮に言ってみる「日本人だなぁ…」、「リバタリアンだなぁ…」と、そうやって自分の立ち位置を仮に踏みしめてみる、そういうことではないかと思います。

身も蓋もない話から、本にして!

 ニートホープさんの『東浩紀×萱野稔人―暴力のエコノミーと環境管理 』を読んだら、お二人が対談したんですね。東さんの雑記からもその興奮が伝わります。僕も当然、活字化を期待します。お二人に関心を持つのはニートホープさんがいみじくも書いているように「身も蓋もない話」から始めるという点だろうと思う。