「パルコ文化」、「セゾン文化」とはなんだったんだろう、

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 武田徹オンライン日記で、増田通二氏の逝去を知る。ここに武田さんの書いている視点は興味深い。

たとえばパルコ文化とセゾン文化は重なりつつずれている。時期的には前者が後者を用意したが、前者のアイロニーは後者を嘲笑するポテンシャルをあらかじめもっていたようにも思え、位置づけは微妙だ。そうした機微を当事者として語る人がまず減ってゆき、文化の受け手として自ら経験をふまえて聞ける人もいつかやがて退場してしまえば実体感をもって戦後の一時代を画した文化を記録することはもはや不可能になる。そうして失われて行く歴史の一幕は実に多いのだろう。80年代前夜のパルコ文化もそうなってしまうのだろうか。

 「パルコ文化」と「セゾン文化」を分けて考える視点は気がつかなかった。実際、現場で働いていた当事者の人々は、どのような感慨を持っているのだろうか?本屋という通路から、リブロ池袋店を舞台にした田口久美子氏の『書店風雲録』が上梓されたが、僕はbk1のレビューでこんなことを書いていました。

1975年、池袋の西武百貨店内にリブロが誕生した。渋谷にパルコがオープンしたのは1973年である。堤清二、増田通二のパルコ戦略を単なる一企業の経営戦略としてでなく、都市作り、街作りまで越境した広告戦略の光と影を分析した北田暁大の『広告都市・東京』(広済堂)と通底するものがある。同じ時代風景を見据えている。勿論、著者は当事者として堤清二の夢の中に登場する一員であったかもしれないが、男たちと違ってズレた文脈の中で当事者でありながら、黙示の批評の矢を放っていると読解したのは穿ち過ぎか、この辺りの判断は続刊が刊行されるまで、判断保留しよう。(中略)
著者の田口久美子はリブロ池袋店長であったが、現在、ジュンク堂の副店長である。三十年を越えるキャリアを持つ全共闘世代の池袋名物オバサンに間違いないが、知的ミーハーとして自分を相対化しながら、結構、クールな目で記述する。堤清二が社長に据えた典型的な戦後左翼知識人たる小川道明の文化戦略に乗った経営、現場で実際に独創的な棚作りに工夫を凝らして、街場のポストモダンのシーンを演出した「今泉棚」の今泉正光、著者自身など、登場人物は、やっぱし、索引が欲しくなる程、エピソードを携えて多数、登場する。勿論、池袋リブロだけでなく渋谷パルコをも射程に置いた本屋の店頭から見た現代思想のクロニクルとして読解しても面白い資料として価値がある。芥川賞作家保坂和志も八十年代を西武カルチャーセンターの一員として文化戦略の圏内にいたし、評論家永江朗も洋書を売っていた。直木賞作家車谷長吉セゾングループの一員であった。堤清二すら、詩人、小説家として別の生を引きずっていたのだから、セゾン文化として都市文化を俯瞰することも可能なほど、映画、美術シーンにも知的ファッションとして、セゾン的なものが特化していたのは間違いない。でも、主役達は舞台から退いた。
堤清二が構築したものは単なる虚であったのか、しかし、登場人物たちはリアリティある生を遊び抜いたのであろう。そのことに関しては羨ましいと思い、著者を始め、現在進行中で本を売る楽しみから離れることの出来ない現場の人達にエールを贈りたい。1996年、小川は永眠した。葬儀の時、今泉は「小川社長にとって堤さんはほとんど趣味みたいなものだったからな」と言ったらしい。本当に堤清二は罪な人だ。
http://www.bk1.co.jp/product/2390206/review/281226よりー

 そう言えば、永江朗が『批評の事情』(原書房)で、セゾン系(佐々木敦 中原昌也 阿部和重)と書いていましたが、『セゾン系』という言葉も懐かしい。こうやってみると、堤清二、小川道明、増田通二たちが舞台から退いても、第一線で大活躍している人が多いですね、でも、パルコ、セゾンは遠くなりにけりっていう感じですね。いや、三浦展さんがいました。元パルコ社員で、『アクロス』の編集長だった三浦展カルチャースタディーズ研究所のHPに掲載されているconsumptionから『80年代消費社会論の検証』は、当事者として現場から「パルコ」を語り、増田道二を語っている。長い文章ですが、確かに学者、評論家が語るパルコは「東京ディズニーランド」を経過した後付再構成で、虚構の「パルコ文化」かもしれない。北田暁大の『広告都市・東京』の有名?なエピソードを実際はそうではないだろうと、もの申している。

北田も引用している、パルコ出店前、渋谷・区役所通りというさびれた通りを増田と堤が歩きながら、ここはなにかにおうねえと言って顔を見合わせたという逸話は、社員の間では、へそが茶を沸かす笑い話だと思われていた。真っ赤な嘘ではないだろうが、そんなプロジェクトXみたいな逸話はあとからの作り話だろう。
 いずれにしても、そこににおったのは金の匂いではない。おそらく増田は、曲がった坂道の上に教会のあるような街を夢想したのだ。宗教学科出身の増田は夢想家でもあった。そして神楽坂のような、坂があり、路地がある、色気のある街を好んだ。渋谷は元々花街だ。そして坂の街でもある。増田の原風景に訴える街だったのだ。ーhttp://www.culturestudies.com/consumption/consumption11.htmlよりー

 どちらにしろ、「パルコ文化」、「セゾン文化」は作り上げられた虚像の一人歩きという面は否定できないでしょう。勿論、文化そのものがそのようなものではあるけれど、少なくとも「東京ディズニーランド」と同じような位相で語ってしまう怠慢は許されるべきではないでしょう。
 武田さんが増田さんにお願いしたオーラルヒストリー調査がかなっていれば、色々なことを知ることができたのにと、返す返すも残念です。合掌