「ロボ乙女」&「オトメン」

[rakuten:book:11917733:image][rakuten:book:11917734:image]千年少女 (Switch library)正しい乙女になるために それいぬ (文春文庫PLUS)
 id:kanjinaiさんが、「女性型ロボットへの性的欲望の未来」のエントリーでロボット動画をアップしているが、ここまで、技術は進化したんですね。でも、何かこちらのロボットちゃんと二人きりになれば、うなされそうだなぁ、『メディア・セックス』の宗教学者・植島啓司のコメントを聞きたいです。それはそうと、辞職の理由はわからないけれど、関大を辞めたんですね。風評は沢山、ヒットするけれど……。
 植島啓司の『分裂病者のダンスパーティ』の序に故渋澤龍彦が快楽について、女の人たちに顰蹙されるようなことを書いていましたね。でも、澁澤は星の王子さまだったから、許されるのかなぁ。
 朝の「特ダネ!」小倉智昭の番組で、『ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト』特集をしていましたが、今ドキのイケメン・キーワードは「オトメン」らしい。
 チャートを示して、縦軸の上が「カッコイイ」下が「カワイイ」。横軸の右が「ノーブル」、左が「ワイルド」で、今回のグランプリを獲得した少年は「ノーブル」で「カワイイ」ということで、まさに「星の王子さま」らしいですが、どうなんだろう。星の王子さまと言えば、忘れてはいけないのは、星新一で、星さんなら、ロボットちゃんと、ひょっとして共振することができるかもしれないと、ふと考えました。故星新一にも動画を見せてあげたかったですね。
 後、特モリで、「ケイタイ小説」を取り上げていたが、身近で等身大の小説がこんなにも中高生の間で読まれているとは驚きです。正確には読むというより、コメンテイターの福田和也が言うように「脊髄?反応」に近いものかもしれない。これはという「出来事」(ガンであれ、イジメであれ、…)をケイタイ画面に引き起こす。幸せモードを盛り上げるために、不治の病のような不幸せアイテムは必須なのでしょう。わかりきったモードに乗った消費なのです。
 登録されているケイタイ小説は100万点ぐらいあるらしい。『恋空』なんて、短期間に100万部突破ということで、リポーターがケイタイ小説について作家のインタビュー、読者(と言っても、同じ目線で、投稿ページなどで、作者とともに盛り上がる)からの声を訊いていたが、結局、本を読むことで「背伸び」したり、「何か」を学ぶ、「自分」を変えることには、全く関心がなく、単に癒され慰められたい、上のイケテル・チャートで言えば、「カワイイ」、「ワイルド(非知性)」のモードなんでしょう。これからの、イケメンの流れは「カッコイイ」、「ノーブル」なら、それは知性が不可欠なものなんだから、「ケイタイ小説」ではノーブルさは身につかないと思いますがどうなんでしょうかね。「オトメンのカリスマ」と言えば嶽本野ばらでしょう。
 こういう「説教おじさん」的な物言いは嫌われるんだろうね、しかし、ことケイタイ小説に関しては藤原新也が昨日のNHKのETV特集で登場したらしいが、残念なことに見逃しました。再放送をチェックしておきます。新也さんの説教ぶりはメタではなく、ベタですからね。少なくともベタから入る。そうでないと、説教は説得力を持ち得ない。僕にはそのような「ベタな部分」が劣化していることは否めない。でも、受動態のカタチではあるけれど、あまりにもアホなことが身に降りかかったり、目の前に出現すると、「ベタ的な反応」を示して、それによって、僕の何とかあった恒常性を知る、感じる、ことに、あいなる。最初から攻撃的に、「ベタな説教おじさん」にはなれないですね。
 藤原新也さんはなれるでしょうね。新也節がケイタイ小説に対してどのように唸ったのか、興味があります。
 追伸:オトメンとは、はてなの定義では「乙男」(乙女+メン)のことで、(1)乙女的趣味・考えを持つ若い男性 、(2)料理・裁縫など家事全般に才を発揮する若い男性、(3)乙女らしい一方、男らしさも兼ねそろえた若い男性 のことだそうです。単なるイケメンは、もうダメですか、それはそうと、ケイタイ小説の読者?は10代、20代の女性がメインでしょう。そのような欲望でアクセスされる若い男性は大変だぁ????、
オトメン(乙男) 第1巻 (花とゆめCOMICS)[rakuten:book:11536983:image]天使がくれたもの [DVD]

アムール女度って、♪でも…

 「愛は負けても親切は勝つ」

 この箴言斎藤環さんも書いてはいるが、やはり、素晴らしい言葉だと思う。
 僕自身も過去にこんなことを書きましたが、赤木さんのインタビューと安原さんのエッセイが載っている『Numero tokyo』の特集が“アムール”なんです。
 (p200)で、速水由紀子氏がAKEMI氏に取材して、アムール力をアップするための処方箋を三つ上げていますが、いや〜あ、大変だぁ、(1)「こんなに愛されている私が好き」から「彼を愛せる幸せ感」へ、求めるものをチェンジ。(2)「都合がいいけど退屈な女」から「リスキーだけど価値ある女」への前進。(3)「ちゃんとイケるセックス」、この三点がアムール度を倍増させるのですって。
 ジジィにはもう縁がないけれど、ホットな“アムール”圧に抗して、あえて、ヴォネガット「愛は負けても親切は勝つ」の言葉を捧げたいと思います。
 その文脈で安原さんの“格下婚のススメ”を考えたいものです。でも、やっぱし、愛の文脈は不可欠なのでしょうか。

先月、亡くなったカート・ヴォネガットの小説『スラップスティック』の中で提案した概念「拡大家族」(すべての人々が自由に選択できるミドルネームを登録し、同じミドルネームを共有するものどうしを人工的な身内とみなすことで、孤立した人々を救おうという試み)を紹介する。ヴォネガットの作品は、その底流に「愛は負けても親切は勝つ」という思想があったとされる。

 日本なり、中国、韓国なりは、姓、氏になるのでしょうか?そんなノリで、「栗山」を検索したら、
 奈良の五条にある日本一古い民家(重要文化財)、「栗山家住宅」
がヒットしました。現在、住居として暮らしていますから、「非公開」ですけれどね、そう言えば、若い頃、会社の研修の帰りに桜井に途中下車して、地元の知り合った女の子に自宅まで連れて行かれ、その堅牢で長年手入れを積み重ねた民家の佇まいに感嘆したことがありました。今、その民家がどうなっているのか、わからないが、いまだにその風格のある姿が生き続けていればいいですね。
 勿論、上の「栗山家」と縁もゆかりもありません。「姓」だけです。でも、カート・ヴォネガットの「ミドルネーム」(姓氏)を共有する人工的な相互扶助のネットワークという考えは面白いですね。
 参照:♪ しゅふになりた〜い (?)
 tokyocatさんの会社に入る前に学ばなくてもいい12の理由は、その通り、でも、やっぱし生きることは素晴らしい、それでも、予測不可能な人生が横たわっている(クサイw)。amor、amour、LOVE、惚れましょう、別に異性でなくてもいのです。対象a(こんな使い方があっているかどうかわからないが…)は、生き物は勿論、無生物でもいいのです。
 そんな惚れる対象aがあれば、生き延べられる。ァカンかなぁ…。
 追記:安原さんの言葉は男にとても女にとっても、制度の問題に引き寄せて、クールに考えるべきものかもしれない。「愛は世界を救う」みたいな消費では解決の糸口は先送りされるだけでしょう。

女子なら許される「なんとなく家事手伝い」身分

 毎日新聞の本日の日曜版社説『時代の風・ネットカフェ難民』斎藤環さんが執筆していますが、先日、ミクシィでやりとりした内容に重なるので、表に書いてみます。

 「家出」を自立の必要条件とする欧米型社会では、ドロップアウトした若者はホームレスか犯罪者になるほかはない。しかし、日本や韓国のような儒教文化圏では、親孝行をはじめとする家族主義がいまだに根強い。そこでは密着した母子家庭を中心として家族が構成されるため、両親は我が子がひきこもろうとニートになろうと、けっして見捨てようとはしないのだ。
 不適応が「ひきこもり」という形態をとりやすいのはこのためだが、それは盾の片面に過ぎない。社会に居場所のない若者たちを、多くの家族が支え続けてくれたおかげで、この社会がどれほど福祉と治安にかけるコストを節約できたことか。「日本の家族」は、若者たちの巨大なセーフティーネットでもあったのだ。そう、少なくともこれまでは。ー斎藤環「時代の風」から『愛や契約よりも「家族」を』よりー

 先月、亡くなったカート・ヴォネガットの小説『スラップスティック』の中で提案した概念「拡大家族」(すべての人々が自由に選択できるミドルネームを登録し、同じミドルネームを共有するものどうしを人工的な身内とみなすことで、孤立した人々を救おうという試み)を紹介する。ヴォネガットの作品は、その底流に「愛は負けても親切は勝つ」という思想があったとされる。

 いまや、いたるところに「愛」と「契約」が満ちている。関係から距離を奪う愛と、関係を固定する契約が。それらはほぼ全面的に許されている。愛と契約の双方に失敗した敗者には、もはや「家族」という居場所すらも許されていないかにみえる。
 ヴォネガットは、おそらくこの状況を予見していた。彼は繰り返し世界の破滅を予言し、愛も契約も信じなかった。この希代のニヒリストが、愛でも契約でもない「家族」の価値を強調せずにはいられなかったという事実は軽くない。だから私たちは、あらためてこう問うべきなのだ。家族であることーーこれが素晴らしくないとしたら、いったい何が?と。

 実感としてもひしひしと腑に落ちる。ミクシィのやりとりで、僕の知り合いの「引きこもり」、いわゆる「ニート」について話したのですが、○○さんが、中学生の息子さんが友達と使っている、「引きこもり」、「ニート」の定義についてコメントしてくれて、そうか、僕の知っている「引きこもり」は、外に出ないけれど、掃除洗濯もするし、健康に気をつけて部屋で腕立て伏せもする。PCを使って家族のために安い買い物もしてあげる。
 息子が気を使っているのが、両親にもひしひしと伝わる。「飼い主」と「ペット」の関係に似ていなくもないが、ペットとしての側面で両親を癒してくれし、ペットと違ってちゃんと、家事手伝いをしてくれる。第一、一緒に食事をするから、殆どカネもかからない。本人が社会に出る意欲がないから、社会投資のカネもかからない。
 だから現時点では問題はないのです。問題は飼い主としての両親がいなくなったとき、新たに飼い主を捜すか、どうするかでしょう。
 「主夫専業」として社会的に活動している女の人?が、「愛より親切」のモードで彼を受け入れ結婚するということになれば、ヴォネガットも草葉の陰から賛同してくれると思う。
 かって、赤木智弘さんが、「現代の貧困」問題の前にその前段として、いわゆる勝ち組女×いわゆる負け組男の「組合せ」を提唱して「お嫁さん募集」をしましたが、これは「愛による結婚」、「契約による結婚」ではなく「親切による結婚」でしょうね。

 うちの中3の男の子は、「家事をやる人はニートではない」と考えています。ひとの役に立つ仕事をしているからです。
 また、家事をやる人は引きこもりではないと考えています。なぜなら、身体活動性が高いからです。
 彼が考えるニートは、「ずっと自分の部屋にいて、PCを見ていて、自分の食事や洗濯を家族にやってもらっており、賃労働も、学習活動もしていない人」のことのようで、引きこもりは、部屋から出る頻度がさらに低い人のことのようです。
 ニートってそういうことでついた名前じゃないんだよってって何度も話したんですけど、彼の仲間たちの間ではよく「ニート」が話題にのぼり、今や軽い蔑称みたいになっているので、「これは俺たちが好きなようにゆがめているかもしれないけど、俺たちにとってはそれがニートなんだよ」みたいなことを申します。
 それぞれに「ニート」のイメージが少しずつ違うので、よくそういう話もするようです。でも一致するのは、やっぱりニートは道義的に劣った人と捉えているらしいこと。そして、その理由として「家事をやらない」「身の回りの世話をひとにやらせている」が含まれる場合も、あるようなんですね。
 うちの子の定義(自注:僕の知り合いの例)では、ニートにも、ひきこもりにもならないのです。女子なら許される「なんとなく家事手伝い」身分にあたるわけでしょうか。

 僕はこの【女子なら許される「なんとなく家事手伝い」身分 】にシンクロしたのですが、男の子だからこそ、生き辛さを感じることはあるでしょうね、最近、自殺者数が三万人を越えて新聞のヘッドラインニュースになっていましたが、女の人は9千人ぐらいで、後は男でしょう。まあ、男社会でまだある、ということの合わせ鏡になってはいるんでしょうが…。

 それにしてもそのごきょうだい、本当にお家が居心地がいいんでしょうね…。
 ひきこもりが問題になり始めたころ、住宅環境が良すぎるのがいけない、子ども部屋をなくせばいいとか言う人もいました。
 兎小屋なのに…と思いましたが、確かに、子ども部屋はちゃんとしてやらなくちゃいけないと考える人、多いです。親がちょっと不自由しても、です。自分の子ども時代の部屋に不満があったからでしょうか。

 女の子はお母さんのペットになっても、あまり非難されないが、男の子がそうやってたらすごく世間が狭くなっちゃう、やっぱり男の方が、まだ縛りが強そうのは事実でしょう。「男の文化」、「女の文化」をもう一度ちゃんと検証すべきでしょう。
 yamazakuraさんからの孫引用ですが、小林よしのりさんは、そんなおとなしい若者に苛立ているらしいけれど、親世代の財で、何とか爆発を防いでいる面がありますよね、でも、そんな余裕が親世代になくなりつつある。だから、「自立」、「自己責任」の声が大きくなっているのでしょうが、
 斎藤さん、ヴォネガットの言う「家族」が段々と防波堤にならなくなって行けば、小林さんが心配しなくても、若者たちは行動を起こすでしょう。
論座 2007年 07月号 [雑誌]

ま・ぐ・わ・い(二歩目の助走)

 下の助走を一歩ずつ検証してみて、今日は二歩目の『男でも女でもまず「依存しない思考」を構築する/社員募集』の予定なのですが、パソコンを開けた途端、友人からメールが入って、このテーマは聞き飽きた。
 それよりか、森進一の「おふくろさん」封印、松本槇原の著作権騒動についてブログを書いてく ださいとのリクエストがありました。
 この問題なら白田秀彰先生ですね、先生の物真似は名人芸で、こんなのもあります。『演歌の作曲/作詞家の先生風』っていう画像です。この問題についてどこかで、先生は書いているかも知れませんね、誰か教えて下さい。
 まあ、34歩の検証を約束しているので、(と言っても僕だけの縛りみたいですが…)
 そこまでの歩みになるとは思います。関心がなければ、そんなかったるい助走をスルーしてもらって、横道のエントリーを読んで下さい。というようなレスをいたしました。
 この二歩目の助走に対する補助線は「アタッチメント」(安全基地)だと思うんです。茂木健一郎さんがよくこのことについて言ったり書いたりしていますが、『欲望解剖』(幻冬舎)でわかりやすく書いていますね。要は、安全基地がないと「冒険」が出来ない。ということです。でも似たようなことは例えば投資セミナーなんかでも、分散投資というフレーズで言っちゃう。
 流動性」(デッタッチメント)、「硬直性」(アタッチメント)は補完関係にあり、例えば、武田徹さんが、調べる、伝える、魅せる! (中公新書ラクレ) で書いているように「結んで、開いて」の重要さにもつながる(文脈が違いますけれどね)と思う。
 人は軸、基盤(それをマイナスのイメージで語れば、硬直性、閉塞感などになるが…)がないと、より高く飛ぶことが出来ないということでしょう。踏み台です。 社会の底が今にも抜けそうだと、四つん這いになって、匍匐前進しかない、二本足で歩くことさえママならぬことになる。それが東浩紀の言う「動物化」につながるかどうかはわからないけれど、少なくとも匍匐前進すれば、延命の可能性は高くなる。出生率も高くなるかも…。
 そうそう、伊東乾の『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)に書いていたんですが、正常位は人間だけだ。他の動物はバックが正常(第四章 欣求ー官能と禁忌の二重拘束ーより)。キスが出来ない、「ま・ぐ・わ・い」(目合)なのです。四つ足歩行なら、そんな「まぐあい」が出来ない。
 吾 汝に目合せむと欲ふはいかに古事記 上)より
 ★ファックとメイク・ラブは違うのです。「子を産む機械」とフォーカスすれば、「ファック」で事足りる。むしろ、その方が出生率が上がるかも、でも、何かそれでは、
 財津一郎的にサビシー!んだよね。

こんにちは赤ちゃん


 群馬県太田市清水聖義市長は第3子以降の妊娠・出産から中学校卒業までの子育てにかかる費用を市がすべて負担する方針を固めたということですね。
 武田徹さんはブログで、かようなことを書いていますが、自戒を込めてコピペ。しかし、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」の時代において、女の人たちはどのような生き方をそれぞれが選択していたんだっけ?この動画を何十年ぶりに視聴すると、明るくて元気な息吹が飛び出して来そうな気がします。

[……]そこでそうした傾向は、まともな社会参加がもはや出来ないという諦念の産物ではないかと書いた。子供を育てる親になるという自己実現方法しかない社会層が広がりつつある兆候ーー、それは街を歩いていて、子供を連れている若い女性の表情や立ち振る舞いを注意深く見ていれば気づける種のものではないかとぼくは思うのだがどうだろう。(中略)若い親子間の虐待の増加などはその危険な兆しを示す傍証にはなる感じもする。育児が親と子が共に社会性を獲得する社会化の過程だとすれば、虐待の増加はそれが出来ない親が増えつつあることを意味する。それは社会参加を諦めて子供を産むという排他的選択が広がった結果、社会と子供を産むことが過度に切り離されつつあるせいではないのだろうか。柳沢発言と期せずしてシンクロし、女性は純粋な「生む機械」になっているのではないか。それも諦めや不可能感を背景に半ば自発的に。
 最新の出生率データの揺り戻しもそんな結果だとみたらどうか。そうだとすれば、生身の子供や女性のあり方など無頓着に数字だけで喜ぶ馬鹿者は例外として、それはちっとも誉められた現象ではないことになる。少子化対策とは傷つけあう親と子を増やすことではないはずだ。
 それとも、一方で家に入るしかない女性が増えたことをもって、ジェンダーフリー化に一矢報いたと考え、一方でルサンチマンを溢れさせて階級流動性をもたらすには戦争すら辞さないと発言し始めたポストバブル世代の登場に改憲への弾みを感じてほくそ笑んでいる政治家がどこかにいるのだろうか。
赤木も赤木を批判する側も、そうしたねじれ気味の状況を踏まえて、今、本当に抗うべきものが何を見定めてゆく方向で議論を深化されれば、意外な連帯への道も開けそうに思うのだが、ネットにしろ、言論誌にしろ、ちょっと狭い範囲での劇場的な議論に終始しすぎている感じもあるなぁ。

 こんにちは赤ちゃんがリリースされたのは、1963年ですね。東京オリンピック前ではないか、そして僕はアルバイトで日銭を稼いで街を彷徨っていたアイビー学生であったわけだ。
 追記:ジュンク堂新宿店に反戦平和棚が誕生 : ウラゲツ☆ブログ

僕は自堕落な猫になりたかった

立川談志 古典落語特選 1 [DVD]悪の華 (新潮文庫)ディアーナの水浴
まず、てるてるさんが、僕の下のコメントで書いたことに対して、ミクシィの方でマイミクSさんが書いたことをコピペ。
>痛切な叫びを投げつける先が、どうして「バックラッシュ」という本を書いた人達なのかが、疑問なんです
と書いておられたのを読んで、「うん、そりゃ、そうだ」とおもったのですね。で、そのあとやはりてるてるさんが、
>別に、生活のために強者女性と結婚しなくても、生活のために、強者男性のなかから気の合いそうな人を選んで友情に基づいた共同生活を送ればいいんではないでしょうか? なんで女性に要求するの?
と続けておられるのを読んで、「この赤木さん、女と暮したいということなんで、生き延びたい、というだけじゃないんだわね」と、きづいて、あ、そうか、とおもったわけです。
単に社会のしくみ云々ではなくて、個人的な性の問題が、大きく関わっているのですね。
そして、今朝みたらば、serohanさんのするどい指摘。
>でこの「弱者」の立ち位置が、いかに有利に働くか、知って使っている
>自称「弱者」による、言論的暴力の標的になったことのある人間ならば、出来るだけ避けて通りたいと、感じさせるものがあるのではないでしょうか。それら自称「弱者」は標的を決めると、徹底的に喰い付いてきますし。但し、劇場型なので、観客がいないところでは議論をしない
この記述には、うわお・・・なるほど、と感心するとともに、私が赤木さんに対して、なんとなく気持ちわかるなあ、とこそ思っても、それほど不快感を感じなかったのはなぜなのだろう、と、自分のことを振り返ったりしましたよ。
>女の人が「男を慰めたり支えたり」することを生き甲斐にしているんではないかと、思っている男性は多いと思いますよ (これは僕が書いたことです)
と話されていますが、「男を支える女は偉い」という発想が、無意識に私にもあって、赤木さんのような「弱者男性」に、ついつい同情してしまうところが、これもやはり無意識のうちに、わたしの中にあるんでしょうねえ。
だって、自称「弱者女性」には、あまり共感することはできないのだもの。
これで大金持ちだったら、ガエルくんみたいなかわいい「弱者男性」を、いくらでも養ってあげちゃうかもね。
って、まず前提が完全にペケだから、可能性ゼロだけれど(笑)。
いつだったか、テレビのトーク・ショーで、トリュフォーの最後の恋人だったファニー・アルダンが、面倒をみているという若いピアニストを紹介していましたが、会場の男性がみんな、「おお、トリュフォーにそっくりな若者ですねえ」とずいぶん興奮していましたよ。
私はといえば、その番組を見たあとで、たまたま用事で電話をかけてきた、やはりおばさんである友だちと、かっこいいねえ、ファニー・アルダンみたいに甲斐性あるとねえ、などと話したことでした。
そういうことなども思い出してしまいましたわ。
◆僕はSさんの話で、思い出したことがある。書店員時代、後輩の女の子でプロのジャズ歌手を目指していましたが、お茶したおり、「私ね、結婚したいと思ったことはなかったなぁ、ただ、お妾さんになりたいとは思っていたなぁ、芸者もいいなぁと思っていた」、すごくナットク出来ました。ただ僕は芸事はからっけしダメで、映画幕末太陽伝フランキー堺演じる落語でもお馴染みの居残り佐平次になれたくてもなれない。
それで、僕は猫になりたいと思っていた、どんな猫かボードレールの猫です。『悪の華』(岩波文庫)所載の「女の巨人」鈴木信太郎訳より(一部当用漢字で書き直しました。)

奔放な奇想に駆られて 大自然が、毎日/怪異の子どもたちを 懐妊してゐた時代なら、/俺は、女王の足もとに淫らな猫が戯れるやうに、/巨大な若い女の傍で、遊び暮らすのを好んだらう。
女の肉体が魂と一緒に 花を満開し、/そのすさまじい享楽で自由に育って行くのを見、/眼に漂ふ潤んだ霧で 陰鬱な恋の焔を/その胸に懐くかどうかと 占ふのを好んだらう。
その雄大な形態を 俺はゆるゆると遍歴し、/その法外な両膝の斜面の上を這ひ廻り、/また、時をりは夏の候、有毒な日の光を受けて、
草臥れて 草原を覆うて女が横臥はる時、/山の麓の太平な部落のやうに、俺は その/乳房の蔭に のんびりと 眠りこけるのを好んだらう。

「男の巨人」ならダメなのです。猫にはなりたくないですね、これは、性の問題だと思う。もし、なるとしたら、犬でしょう。犬に失礼かな、狩りの女神アルテミスの犬になるのはいいかもしれない。そう、ピエール・クロソフスキーの『ディアーナの水浴』で水浴するディアーナ(アルテミス)を盗み見たことで鹿に変えられ、猟犬に噛み裂かれるアクタイオーン。あの猟犬です。性のエネルギーって概念化出来得ないものなのではないか。
参照:『バックラッシュ!』非難のこと、そして「弱者」のこと - 双風亭日乗はてな出張所

婆(爺)クラッシュ!?

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?感じない男 (ちくま新書)無痛文明論
 前日のエントリー、コメントに続くのですが、マイミクさん、てるてるさん赤木智弘さんに対する評価の違いは多分、理屈ではなくそれぞれの履歴による「感情」が装填された記憶の生自体によって、「弱さ」に対する反発と共振が鬩ぎ合うのでしょう。
 女性であり、年齢も多分、そんなに違いない二人の間でも若い男性の「弱者言説」に嫌悪、好感と違った情が露出している。そのことについて昨晩考えていたら、生命学の森岡正博さんの『感じない男』という学者の手になる「私小説」より「<私>小説」、でも小説ではなく、学者の赤裸々な『ヰセクスアリス』である性告白ロリータ文献『感じない男』を思い出しました。
 発刊前後、生命学のHPでも森岡さん周辺の読者共同体がある種のお祭り騒ぎをして盛り上げ、セックスにまつわる書き下ろし、そしてこの本のあとがきに著者自身が大学の授業で『感じない男』に関する質問は一切受けつけないと、告知していましたが、本書の通底に流れるもてなかった男(性的弱者)の告白は、それを言わなくては高見から発信する「ロリータ」論になってしまうという森岡さんらしい誠実さだったと思いますが、あるところではだからこそ誠実さが伝わる稚拙な文体で、そのことについて僕は過去ブログでも苛立ちを隠せなかった。まあ、bk1のレビューから一部引用してみます。

スキャンダラスな教授の性告白というちょっぴり刺激的な惹起文に惹かれてこの新書を手に取った人がいるかも知れない。「生命学」、「無痛文明論」のことはまるきっり関心のない人達をもターゲットにしたのではないかという戦略は著者の『感じない男』という掲示板をHP上にアップした事情でも窺い知れる。それが良かったのか悪かったのか、つっかえ、つっかえ読み終わった感想は、長年に渡って鋤を入れて様々な文体が乱入しながらも、これからも添削されていくであろう未完の大作『無痛文明論』の著者だからこそ、何かあるだろうと、期待して読んだのですが残念なことに僕にとって新しい発見はなかったという想いです。それは僕の読解の能力の足りなさを露呈していることになるかも知れないが、大部の『無痛文明論』は刺激的に読めたし、新しい発見も多々あった。
著者の自己を相対化し、被験者とし、性告白の闇に果敢に挑んだとの表白は、読者の一人として実際の語られた言葉で判断するしかない。生命学なら一歩も二歩も引いて、学者としての言葉をまず拝聴するしかないが、性にまつわることは、個別的で特殊な体験をリアルにみんな持っている。一人一人が一家言持っているということです。その特殊性をいかに説得力を持って語るかは結構むずかしい。深く掘り下げれば言葉にならない底が抜けている闇が性であることは間違いない。
それは多分に自己探しのような困難なものですが、問題は僕のように自己探しなんか、欺瞞だよと考えるスタンスでは、性を語る、自己を語る振る舞いは肝心なものを隠す身振りではないか、そんなのへそ曲りの読解かもしれないが、著者の性を語るエクリチュール森岡正博氏独自の特殊性がない。本人も気がつかないのかもしれないが、何か肝心なものを隠している。そうでなければ、こんな決まり文句のフレーズで、又は荒っぽい独りよがりな論理の展開で書けるはずがないと思いました。著者自身は<私の告白>を強調するが、その告白があまりにも通り一遍で、教科書的だったということです。ちょいと、厳しい評かも知れませんが、僕は余人をもって代えがたい特殊性が森岡正博氏の真骨頂と思っていたので、残念です。
bk1書評続く…[……]

参照:『感じない男サイト』『感じない男ブログ』
でも、マイミクさん、てるてるさんは、森岡さんを受け入れる。森岡さんはよく「僕は大学でしか働くことが出来なかった社会不適応な男だ」みたいな言い方をしますが、そのような自虐的、弱者的な言い方が共感を持って受け入れる素地になっている側面があるのではないか、しかし、実際のところ大学の教授は社会的な尊敬を注がれる。尊大でなくてもいいけれど、必要以上に『感じない男』を書いてしまう男と生命学者としての男とがある種、引き裂かれて『無痛文明論』という奇書を発刊したのですが、この本に関してもbk1レビューを書いているので一部引用してみます。

bk1書評より[……]一体、彼が拒否する無痛文明とは何か。冒頭でこの言葉を思いついたのは、ある看護婦さんの話を聞いた時の事だと記す。彼女の受け持つ集中治療室に意識の混濁した患者が運ばれて来た。「すやすや眠っている」状態である。適切な治療と看護を施しているから患者はとても幸せそうである。恐らく再び目覚める事はないであろう。点滴を受け彼女のケアによって身体は清潔に保たれ温度は快適に管理された部屋の中で安らかな表情で眠り続ける人間。悩み事も痛みも不安も恐怖もない。快適な眠りの中に居続ける。「結局、現代文明が作り出そうとしているのは、こういう人間の姿なのではないか」、彼女の疑問から派生すると記す。
 ただ、誤解されやすいが、既存の言説で権力構造を中心に置いたシステムをマッピングしたニ項対立、管理/自由、帝国/マルチチュードネグリとハートの)、と同次元の構図を提示しているわけでなく、恐らく脱構築という言葉さえ嫌う、著者の非常に私小説的な告白から降り立った一人の人間が、内も外も無痛奔流に浸されて自分の影との戦い似たものにならざるを得ない負け続ける遠い道のりだと覚悟しているということである。 
 ペネトレイターに貫かれて自己形成する「この私」の繋がりが森岡正博なのであり、影も又、神出鬼没である。あらゆるジャンルに触手を伸ばし縦横無尽に語る彼の言説は複雑怪奇かも知れぬが、結局、たった一つのことしか彼は発信していない。予測不可能な一回切りの生命の欲望に中心軸で耳傾け、かけがえのない生を生き抜くこと。そのためには、この無痛文明に対してノンと拒否する。「死ぬのは怖くない、ただ痛いのは困る」と、そんな至福より自堕落な眠りが心地よい人にとっては、この本は単なる紙屑だ。オール・オア・ナッシングなのだ。この本の書評は不可能である。ただ、受け入れるか、拒否するかどちらかなのだ。

 実際、この本を上梓した森岡さんはアカデミーの場を去り、次なるステージへと「痛い世界」へと飛び立つのかと思ったのですがそれが、『感じない男』だったわけです。「痛さ」についてそこまで書きながら、「性告白」をそこまで言いながら結局居心地の良いところに着地している。そのような腹立たしさが森岡さんに対してあります。
 恐らくそんな僕の感性が赤木智弘さんにある部分シンクロしたのでしょう。期待したのに裏切られた、まあそれは手前勝手な振る舞いですが、理屈でわかっても、森岡さんの処世を受け入れても僕の「感情」が引っかかるのです。赤木さんも宮台さん、上野さんを始め豪華執筆陣に対してそんな引っかかりがあったんではないか、
 ただ、『バックラッシュ!』について弁明すれば、宮田さんのいう読者共同体は双風舎にあっては、精々一万部で谷川さんもそんなメインターゲットで編集したと思うのです。都市部の書店、アマゾン、大学生協と院生、大学生がターゲットで『限界の思考』と同じような読者共同体を想定したと思うのです。
 その辺に関して宮田さんはいらぬお節介を厭わず谷川さん当てにブログ手紙を書いたわけですが、最高値を一万部に線引きして出版することは一つの見識だと思います。直販で一万部なんてのは凄い実売数です。確かに、数千部の実売では「外」の読者共同体につながらない。でも、僕個人の意見としては数千部の世界で一人出版社としてとにかく地道に出版を持続してもらいたいのが本音です。
 森岡さんの『感じない男』は、新書として何十万部のベストセラーを想定した本だと思います。「外部」とつながろうとしたわけですよ、でも実際は小谷野敦さんの『もてない男』ほどにも売れなかったのではないか、間違いなく小谷野さんのこの本は「外部」につながったわけですよ、逆に言えば僕のような教養コンプレックスの強い男(?)は、新刊本屋でも、図書館でも、新中古書店でもやたらめったりとお目にかかるのに、いまだに読んでいないのです。宮台真司の「もてる男言説」の方を読んでしまう(笑)。
 うたかたの日々でソネさんが柴田翔の『されどわれらが日々』を読んで内心「け!」だったと、小谷野さんの新作『悲望』は非モテ系青春小説だとコメントしながら、書いていますが、そう言えばソネさんも森岡さんの『感じない男』を評価していた。僕が柴田翔を読んだのは高校のときで当時文芸部在籍だったこともありますが、こういう小説をこれから書かなくてはいけないみたいな模範小説でしたね、教養コンプレックスを下支えしたモテ系青春小説ですね、実際、僕たちの高校、大学の頃はわからなくとも「教養」がビジネスになっていた。
 そんな状況ではメインターゲットが院生、大学生であろうとも、知的ファッションとして宮田さんの言う「外」の人々が「人文系」を何十部単位で購入してくれた。羽仁五郎の『都市の論理』にしろ淺田彰の『逃走論』にしろ、女の子たちがグッズとして購入する現場を書店員としてみたわけです。多分『バックラッシュ!』もそのような噴き上がりを期待したのかもしれないですね、そのような認識のズレが宮田さん、赤木さんにはあったんだろうと思う。