心優しい男性に勇気を

草食系男子の恋愛学

草食系男子の恋愛学

http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20080819bk01.htm
こちらの読売新聞の記事を読んで笑ってしまった。
女性記者の森岡さんに対する好感度がひしひしと伝わってくる。
掲載されている画像も森岡ファンにはたまらないでしょうねぇ。
プロマイドとして保存できますよw。
著者来店のアーカイブを見ると、団鬼六が登場している。
http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20070828bk02.htm
『枯木に花が』ですねぇ。
枯木に花が

枯木に花が

福岡伸一/ラブコト?

ラブコト 2008年 09月号 [雑誌]

ラブコト 2008年 09月号 [雑誌]

いずみさんからコメント欄で坂本龍一の『エロコト』の続刊ともいうべき『ラブコト』が発売されたということを聞きましたが、
エロコト』で「エロを科学するーかくのごとく、生命の基本は女系」であるという福岡伸一のエッセー(第一話「キラル」第二話「アリマキ的人生」第三話「Yの悲劇」)の続編が『ラブコト』で掲載されるのかと思いきや、目次を見る限りないみたい残念!
坂本龍一編集、『ソトコト』別冊『ラブコト』発売、リリー、金原ひとみ、桜沢エリカら参加 - CINRA.NET
最早、僕に縁のないコンテンツが目白押しですw。福岡さんの路線で「エロを科学」してくれれば、面白い雑誌ができると思うが、どうでしょうか、そこに森岡正博さんの『<草食系>男子の恋愛学』を絡めて、『ラブコト』なら面白いと思うが、どうやら、坂本さんの『エロコト』にしても『ラブコト』にしても『肉食系…』の臭みがある気がします。

…、そしてエコフェミ

前のエントリー、コメントからの続きです。(筆者注:濁点は太文字にしています)

 だがエコロジカル・フェミニズムの最も良質な部分を蘇らせるとしたら、間違いなく経済に手をつける、すなわち働き方も含め「家」という存在をいじる必要がある。「公」と対立する(あるいは対立させられた)「私」としての「身体」や「家」や「自然」。その概念・思想をおそらく経済概念と働き方を変える方向に向かわせ深化させること。それこそ「俺は家族のために働いている」という言葉が成立しない方向へ向かうこと。ー『オルタナ 7・8月号』p42よりー

栗田隆子は本稿の『エコロジカル・フェミニズム再考』でいわゆるエコフェミの実践的な次の一手を模索しているわけです。

結婚して/親になって/子どもの将来/どんな世界になってるのか不安になり/「とりあえず環境を守らなきゃ」/エコに目覚める人は多い
/一人暮らしで/フリーターで/どこにも/属していない/自分が/不安になり/「「少なくとも地球家族!」/エコに目覚める人も多い/(秋川りす『OL進化論』『モーニング』講談社、2008年6月26日号)
 「母」も「独身」も消費社会/市場経済に巻き込まれたエコロジーにはまっていく。それは必ずしも一括りにはできないだろう。しかし、寄る辺ない不安から「地球」という枠に身を委ねていくような感覚も、ある意味、実に危険なものではないか。
 「家」的な概念が近代的な核家族の「マイホーム」か、巨大ゆえに空疎な「地球家族」しかイメージが浮かばないというそのことこそ、まさに関係の貧弱さを物語っている。エコロジーという言葉が生物学では表現できない概念を伝えようとしたように、私たちは「家」という言葉そのものを変えていく必要があるのかもしれない。新しい関係性を作ることは、同時に新しい言葉を必要とし、そこで初めて思想と実践が分かちがたく結びつくのだろう。人間同士だけではない関係を含めて。
 私の言いたいことはシンプルだ。消費中心の考え方、それを形づくる市場主義に距離を置ける関係を作ること。身体や命を利用するべきものではなく、あるものとして経済を促えること。またそこには、ジェンダーの視点が不可欠ということも。(p43)

臓器移植の問題など生命倫理学にもつながると思うが、栗田さんの向かう先はあまりにも困難な道で、「政治」の手に余る「文学の問題」だと言えなくはない。「新しい言葉を産み落とす」ことは出来るかもしれない。そのような出産なら男の僕でもできるわけで、そのようなカタチのない無数の出産を重ねて「世界は揺れ動く」ものだと思う。
 60兆個の細胞が関係性というランダムさでまぐわえば、あまりにも豊壌で溢れ出る世界がうごめく。ポニョ♪

女も男もおんなでいこう!!??

日本浄土

日本浄土

ある人から、藤原新也の新刊『日本浄土』について教わり、どうやら、Shinyaトークによると、艶話が多いみたい、多分、Shinyaさんの男の色気が立ち上がるエッセイに仕上がっているみたい。
Shinyaさんは僕と同年ですが、僕より若いって言っても団塊世代のご婦人方がメインですが、Shinyaさんが「大好き」っていう人が多い。同じく同年の松岡正剛が千夜千冊で、『印度放浪』のレビューを書いていましたよねぇ。

とくに若者たちは藤原のゲンゴロウのようなモノローグ表現とアジア主義に落ちないアジア観察に強い関心をもち、ときには彼の家を捜し出して押しかけた。女の子も家にまで駆けつけた。「あれにはまいったね、贔屓の引き倒しだよ」と藤原は苦笑いしていた。きっとストーカーまがいのことも受けたはずである。しかし、ファンがそうしたくなるものを、藤原はあきらかにもっていた。実はぼくも何度もストーカーに悩まされている。

まあ、松岡さんもモテ振りを吐露しているw。「嘘がなくとも、白状しなければならない」(藤原)。
ついでに、雑誌「オルタ」に掲載された『黄泉の犬』の拙レビューも紹介しておきます。
そんな松岡正剛藤原新也の「男組」から、何故か、田中優子「おんな組いのち」のページに到着してしまった。
やはり、ある人が同じ文脈で、田中優子(在日横浜人)の「何を持つのか、何を持たないのか」コラムを紹介してくれたのです。

命より自尊心の方が大切だという価値観は、自殺にもつながるが戦争にもつながる。ここで考えなくてはならないのは、承認、自己肯定、自尊心は、外から与えられる評価によってしか生まれないということである。ナショナリズムは、在日でなくて日本人、女性でなくて男性、であることで心を満たす道具と化しているという。相対的な比較の上でようやく成り立つ自己である。これこそ競争社会の狙いどおりだ。貧しい農家の出身で、「米の自由化反対」の先頭に立っていた松岡大臣は、その志を売って大臣のポストを手に入れた。志より大臣のポストを選び、国民に対する責任より名誉の死を選んだ。彼も競争社会のお手本である。 大臣とフリーターが同じ価値観で生きているのが、現代社会なのである。 

武田徹さんが粥川準二さんたちとのネットラジオで、レギュラーの赤木智弘さんが不参加した最新のエントリーなんですが、 自殺者が3万人をず〜と越えている状況で、 自殺/他殺との境界線が溶解しているという臨界から、もう一人のトモヒロ(最近宮台さんあたりが、二人のトモヒロ問題という言い方をしているみたい)の「誰でもよかった」という連続殺人は他殺であるけれど、自殺の問題と通底しているのではないか、そういう側面からの秋葉原殺人事件を考えることも必要ではないかと問題提議していました。
洋泉社 からムック本『アキバ通り魔事件をどう読むか!? 』が出版されましたが、様々な論者が色んな切り口で書いてはいるが、そのような自殺の問題とつなげているものはなかったと思う。
上に紹介の田中優子さんの結語で、自殺した松岡大臣も、戦争は、希望と言ってしまう赤木さんと「相対的評価としての自尊心」(村社会内での承認でしょう)というところで繋がっていると読めましたが、もうひとりのトモヒロもそんな側面があったかも知れない。せめて、自尊心が、承認が、孤高の絶対評価に足場を持つなら、 自損としての他殺を防げると思いました。*1
それはそうと、週刊金曜日に赤木さんの本田由紀の『軋む社会』のレビューが掲載されていましたが、その洗練された文章にビックリしました。
僕のbk1の拙レビューに比べると雲泥の差です。美文なんです。荒削りのところが研磨されているという感じでした。
 田中優子さんの言う女も男もおんなでいこうは、森岡正博の『草食系男子の恋愛学』の男子に近い感じがします。それは、又、杉浦由美子さんの言う腐女子に限りなく近い感じもするんです。
 どちらにしろ、限りなく「男」を減殺するためにホルモン療法をすることで、僕の延命は図られることは間違いない。ひょっとして、地球もそんなホルモン療法が必要ではないかと、アブなジャンプをしました。

ないものとされたいのちが…、

id:shohojiさんのエントリー(http://d.hatena.ne.jp/shohoji/20080729)は継続して考えたいので、
こちらにも転移しておきます。
あちらのコメント欄に『フリーターズフリー』に掲載されている栗田隆子の「“ないものとされたもの”これくしょん」(前編)を一部引用していますが、こちらにも後で追記します。
取りあえず参照の一つとして動画をアップ。

有史以来の労働

 檀原さんという方が「ヨコハマメリー」さんをテーマにしたブログを始めたとのコメントがありましたので、紹介します。僕もこのブログでメリーさんについて色々書いていたから案内が来たのでしょう。しかし、メリーさんのお仕事も「額に汗しない労働」だったかもしれないが、近代資本主義制以前から切れ目なくあったし、これからもあり続けるのでしょうねぇ。
 メリーさんを詩った田村隆一の詩が紹介されている。氷河そのもののメリーさん、なんだって、成る程、白塗りだもんねぇ。
 こちらのブログから一部引用します。(「港のマリー」(文芸誌「海」1982年3月号より )

[…]/厚化粧をしたマリーの顔には/無数の皺が刻みつけられている/まるで宇宙衛星から撮影した地球の/氷河のようだ/彼女の氷河期は/日本の敗戦からはじまった/銀座の服部時計店のまえに立ってから/ヨコハマ ヨコスカ/日本のなかのアメリカで生きてきた/[…]

金持ちより人持ち/男は愛嬌?

 昨日、ジュンク堂大阪本店での『おひとりさまの老後』をテーマに上野千鶴子さんのトーク&サイン会がありました。40人ぐらいの席に男は僕を含めて5、6人でした。後は殆ど僕より若いミス、ミセスのおひとり様、おひとりさま予備軍でした。そんな中で小さくなって上野さんのしゃべくりに耳を傾けました。
 いわゆるその筋系の人(上野さん自身が冒頭そんな言葉をアイロニカルに使ってはいました。)が大半のような観客席ではありました。『おひとりさま〜』は75万部と上野さんが、下ネタで昔、48万部も売った『スカートの下の劇場』の倍以上も伸びる動きで、上野さんも「まさか、下ネタより以上も売れるとは思っても見なかった」と驚きを隠さなかったですね。
 上野さんの履歴を知らなかった人が購入した事情があるから、こんなにも売れたのでしょう。そういうこともあって冒頭、「本を読む前から私のことを知っていた人?」って挙手を促したら殆どの人が手を挙げていました。
 やっぱし、筋者たちかぁって、上野さんは苦笑いしていました。
 でも、実はこの本を購入してから上野さんが何者かを全く知らない老母に読ませると評判が良くて、今老人仲間が回し読みをしているのです。「老後の戦術本」になりますからねぇ。特にお婆ちゃんの…、そんな本だからこそ、売れているのでしょう。
 ジュンク堂トークには、そういうお婆ちゃん達は来ていませんでしたが、来ていたら面白かったですね。
 ところで、話の中で吉武輝子さんが「金持ちより人持ち」という書評してくれたことが嬉しかったと言っていました。質問タイムで「でも、やっぱそこそこのお金が欲しいです。そこそこのお金があるから、人持ちと言えるんでしょう」、「お金しか信用できない」っていうシステムの中で生きながら、「金持ちより人持ち」とは、ナイーブには中々言えない、癒しモードにはなりますけれどね。癒しよりは喧嘩モードの上野さんらしからぬ言葉で、老人仲間で人気のある日野原重明さんの言葉ならナットクします。と言いたかったのですが、女の方のように度胸がありませんでした。サイン会で、「老老介護進行中」のオヤジですと上野さんに挨拶するのが、やっとこでした。
 この本は一言もフェミニズムをいう言葉が使われていないのです。そのことも大ベストセラー(進行中)になっている要因のひとつかもしれません。でも、フェム魂は燃えたぎっている。エピソードの一つとして、珍しく、男性からお褒めの読書カードが来たのですが、その男性読者が本書の最後の三行に「かちん」と来ました、重版するときはこの三行を抹消していただきたいとのリクエストがあったということです。

 なに、男はどうすればいいか、ですって?
 そんなこと、知ったこっちゃない。
 せいぜ女に愛されるよう、かわいげのある男になることね。ー最後の三行よりー

 勿論、上野さんは、抹消するつもりはありません(笑)。男は厄介ですね、重荷を背負い込んでいる。荷物を放り投げることができないのでしょうか。せめて、女の人に頭を下げて荷物を手渡す脱力系の選択があってもいいかと思いますがねぇ。アイデンティティの問題にかかわってくるのでしょう。
 まあ、僕はこれからの処世(余生)を「女は度胸、男は愛嬌」を心静かに実践してゆくつもりですから、逆にこの最後の三行は拍手喝采したいものです。
 行き帰りの電車の中で本田透さんの『喪男【モダン】の哲学史』を読みましたが、予想外にオモロイ。読みながら笑ってしまいました。
 非モテ系の喪男ではなく、「モテ系の喪男【モダン】」として生きることがあってもいいと思うよ。フーテンの寅さん、釣りバカ日誌のハマちゃんは、そういう上野千鶴子に評価される「かわいげのある男」だと思います。

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

喪男の哲学史 (現代新書ピース)